1度サーバーをガチャンと切り替えてみます (2) 準備に手間取ってます

4月8日頃にガチャンと切り替える予定

2022年4月6日(水)の午前中に,ガチャンと切り替えようかと思いましたが,肝心なBIND (named)の設定がまだと気がつき,着手しましたが,難航しています.

もともとBINDのことはあんまり理解してないまま使ってきてました.解ってないのにいろいろ過去の複雑な事情が設定に盛りこまれています.

BINDもセキュリティーの事情からバージョンが上がる度にそういう曖昧さが許されなくなってきているようで,Slackware 14.xで動いていた設定をそのままコピーしても,エラーが出て動いてくれませんでした.

ということで,1, 2日かけて,BINDの設定をチューニングしてから,いよいよガチャンと切り替えます.

追記: とりあえずBIND動きました

BIND (named)の設定のエラーは,メッセージを見ながら,理解していないなりに😓 直して,エラーが出なくなりました.

しかし,システムを起動しても,namedもntpdも動いていない.前のシステムの起動手順などを見てみても,特に変わらないのですが.

なんとなく勘で,システムの時間が設定されていないとnamedが動かず,namedが動いていないから,ntpdがサーバーのipアドレスを取得できなくて動かないのではないか,と当たりを付けました.

一番の問題は,Raspberry Pi Model Bシリーズが,バッテリーにより駆動されるhardware clockを持っていないことです.起動時に何もしないと,1970年1月1日から始まってしまいます.

もともとの起動順は,rc.Mから呼ばれたrc.inet2によって,rc.bindがスタートして,そのあと,rc.Mの少し後でrc.ntpdが起動されます.これでしばらくするとclockが同期しますが,少し時間がかかるので,ntpd起動の前に,

/usr/sbin/ntpdate 0.pool.ntp.org

を実行するように,rc.ntpdに追加してあります.

SlackwareARM 14.xではこれで問題ありませんでした.つまり,システムの時間が1970年1月1日でもnamedは起動して,その後に起動するntpdのサーバー名を解決してくれます.しかし,SlackwareARM 15.0付属のBIND 9.16.xでは,システムの時間がめちゃくちゃだと,namedが居座らずに異常終了してしまいます.

そして,ntpdが時間サーバーのipアドレスを解決できずにやはり異常終了してしまう.

「ニワトリが先かたまごが先か」問題です.

仕方がないので,0.pool.ntp.orgでたまたま表示される1つのipアドレス(仮にnn.nn.nn.nn)を使い,rc.Mの中のrc.inet2起動の前に,

/usr/sbin/ntpdate  nn.nn.nn.nn

を書いて,解決しました.poolなのに,固定的に使うのは趣旨に反すると思いますが,起動時の一回だけだから勘弁しもらいましょう.

動けばいいのだ™
ntpdate実行時も.

1度サーバーをガチャンと切り替えてみます

LAN内で,新しいサーバーの準備をしています.デフォルトのmail transfer agent (MTA)がsendmailからPostfixに変わったとか,httpdはたぶん動くだろうとか解りましたが,実際に外からアクセスできるようにしてみないと,動くかどうか解りません.

2022年4月6日(水)の午前中に切り替えを予定しています.あんまりひどかったら元に戻します.

以後しばらくは当サイトの運用が不安定になるかもしれませんので,ご承知ください.

安定しましたら,またお知らせします.

3月17日

1996年のこの頃は,残暑の厳しい中,シドニー郊外で相変わらず家探しをしていたと思います.

その1年前の1995年3月17日は,ご褒美😓のオーストラリア出張中でしたが,キャンベラでの予定を終え,アデレードへの移動日でした.取れた便が夕方だったので,昼間は暑い中,テレビ塔やバーレーグリフィン湖に行ったりして過ごしていたようです.

山の上に建つテレビ塔.塔自体はそれほど高くないけれどサービスエリアはかなり広いと思われる.
バーレーグリフィン湖の湖畔にて.通りすがりのサイクリストが撮ってくれました.

で,昼下がりに空港に行き,レンタカーを返して,アデレード行きのジェット機に乗りました.B737でしょうか.今は亡きAnsett Australiaです.

アデレードに夕方着きましたが,荷物が出てきませんでした.この時点で公私合わせても国外旅行は4回目だったのですが,初めてのできごとでした.というか,今日まで海外旅行は都合20回,国際線搭乗は往復だから少なくとも40回ほど,国内外での国内線利用も数十回していますが,荷物が出てこなかったのはこのときだけです.

荷物を待つ客が自分以外誰もいなくなったので,少し焦ってLost Baggageの係のところに行ったところ,どこに泊まるか聞かれました.しかし,その時点でどこに泊まるか決まっていなかったのです.

このときの出張は1人だし,ある程度勝手を知っているオーストラリアだったので,宿の予約はせずに来たのでした.

係員にまずホテルを決めて下さいといわれ,ホテルの予約のコーナーに行きました.たぶん,ホテルの写真と料金の範囲が書かれたパネルが並んで,予約専用の無料の電話機が置いてあるようなところだったと思います.なんか,このときはご褒美と言うこともあるし,シドニーとキャンベラで節約できたので少し高めのホテルを取るつもりでいました.

予約コーナーに着く前にホテルの大きな看板がいくつかあり,そのひとつが気に入ったのでそこに決めました.場所もNorth Terraceなので,抜群のロケーションです.ホテル名が思い出せません.支払いはトラベラーズチェックだったようで,クレジットカード使用の控えも書いてありません😓

無事予約を取って,再び係員のところに行って,荷物のタグを見せてホテル名だけ告げたと記憶しています.

ホテルへはたぶんタクシーで行ったと思います.アデレード空港は,オーストラリアの大都市の中でも最も公共交通の便が悪いです(たぶん今日でも).いや,便がいいのはシドニーとブリスベーンだけ,というのが正しいかもしれません.

ホテルにチェックインして,腹も減ったのですが,食事に出かけている間に荷物が来たらめんどうだなと思って,しばらく待っていました.しかし,20時頃になってもこないので,そうだ,近くにマクドがあるということで,ホテルから5分くらいのマクドでテイクアウトして,たぶん20分かからずに部屋に戻ったら,なんとスーツケースが部屋の中にありました.いてもいなくても部屋に届けてくれるようです.高級ホテルに泊まったことがない,というかlost baggageなんか経験したことないので知りませんでした😓

こんなことだったらもっと早くに出かけてゆっくり食事をしてくるんだったと思いました.

ということで,3月17日は “Lost Baggage Anniversary” です.

アデレードのホテル (1995年)

思い出しました.InterContinentalです.裏付ける資料もありました.Google MapsやStreet Viewで確認しますと,現在も同じ場所にホテルがありますが,名前が “Oaks Adelaide” と変わっています.また,現在のInterContinental Adelaideは近くの別の場所にあり,見るからに高そうです😓

また,2006年の出張もこのあたりのホテルに泊まったのですが,何というホテルか思い出せません.資料を探してみます.

2002年に経営破綻.
徒歩圏内に,博物館,美術館や公園がある.
オーストラリアでは, “Take Away”.
当然経営も変わっているでしょう.

3月15日

1996年

そんなわけで,1996年の3月の今ごろは,シドニー郊外で家を探す日々でした.泊まっていたのは,Lane Coveというシドニーの北の住宅街にあるホテルでした.今,Street Viewで見ると,存在していません😓 名前も思い出せませんが,有名な中くらいのランクのホテルのチェーンです(見つけました).

最初はちゃんとした部屋に泊まっていましたが,家がなかなか見つからない中,少しでもホテル代を節約しようと,途中で安い部屋に変えてもらいました.安い部屋は,入り口は1階ですが,奥は地下の半地下構造で,少し湿っぽかったです.

そのホテルはBYOレストランが着いていて,たいていはショッピングセンターのフードコートなどで食事をしていましたが,家が決まったかなんかで,1人で祝うためにそのレストランで食事をした際,ビールを飲もうと思い係員に聞いたら,ここはBYOだから,自分の部屋の冷蔵庫から備え付けのを持ってきてくれと言われ,なるほどそういうものかと感心したのを覚えています.

しかし,それらが3月の何日に起きたことかは写真もメモもないので全く解りません.当時はまだアナログ写真の時代で,写真が趣味だったわけでもないので,本当に振り返るのに写真がなくて困ります.

1995年

3月15日というのは,その1年前の1995年のオーストラリア出張でキャンベラにいた日でもあります.

1994年度は,同業者の間では「江戸詰」といわれるのですが,本業とは違う「役人」としての仕事をしに,東京に通っていました.その年度末に年季明けのご褒美として好きなところに出張できたのです.

それまでオーストラリアとアメリカに公私でいったことがありますが,どちらかというとオーストラリアに行きたかったです.とはいえ,仕事に関係した見学やディスカッションができそうなところを全く知りませんでした.さいわい個人的なコネで😓適当なところをアレンジしてもらいました

振り出しはシドニーでしたが,3月14日にキャンベラに移動しました.キャンベラでは,「レンタカーを借りて途中で見つけたホテルにふりで泊まる」というのをやってみたくて実践したのでした.その時のレンタカーの写真はありますが,ホテルの写真は残っていません.

そのホテルは実はユニークな形状をしていて有名だったらしいです.たしか,木造で,ドーナツ状をしていました.ずいぶん後になってそのホテルが取り壊されるというニュースをたぶんオーストラリアのメディアでたまたま見たのだと思います.今検索を試みましたが,全くひっかかりません😓 写真が1枚もないというのはなんとも残念なことです.

あとで何とか手がかりを探して,追記したいです(見つけました).

その翌日3月15日は水曜日のようですが,予定がなく,学生時代に訪問を果たせなかったTidbinbilla Nature Reserveに行ってきました.1983年の同じ3月に卒業旅行で訪れたのですが,山火事でNature Reserveが閉鎖されて,ツアーバスが入れなかったのです.

ホテルのあるキャンベラ都心から小一時間かかったと思います.Nature Reserveの入り口から一番奥にあるコアラを囲っている地域に入りました.Nature Reserve内にもコアラはいるはずですが,広い公園内の高い木に散らばっているので素人はまず見つけられません.そのため,一区画を柵で囲ってコアラをまとめて住まわせ密度を上げているようです.ですから,公園内で探すよりは見つかりますが,やはり高い木の上の方にいるので簡単には見つけられません.

そこに車を駐めた時でした,鍵をかばんごと閉じ込めてしまいました😓 鍵の閉じ込めって一生で何度もやったことはないのですが,よりによって人里離れた自然公園の一番奥まった地点でしたのでした😓

ということで,3月15日はキー閉じ込め記念日です.

たまたま,コアラを見ていた他のグループが一組いたので,その人たちに頼んで公園の入り口にある管理事務所に乗せていってもらいました.

管理事務所でレンジャーに頼んでレンタカー会社に電話をしてもらいました.

事務所近くのカンガルーやエミューを見て待っていたら,たぶん小一時間でレンタカー会社の職員が来てくれて助かりました.

たまたま写真がありましたが,せっかくだからということで樹上のコアラを見てから帰ったようです.

追記

Country Comfort Motel (Lane Cove)

見つけました.1998年か2000年にシドニーを旅行した時に,NRMAという日本のJAFに相当する会社でもらった, “Holiday Guide: Sydney Central and Greater Western Sydney” で,Lane Coveを探したらありました.

こちらは,なくなったと思ったのは場所を勘違いしていて,今も存在していることが解りました.ただし,昔とマークが変わり,名称も現在は “Comfort Inn North Shore” になっているようです.

また,半地下の部屋は,説明書きと写真の雰囲気から,ROOMSの一番下にある,Ground Floor Queen Roomと思われます.

Embassy Motel (Canberra)

Canberraのホテルも見つけました.旅行に行く時は手帳を買って持って行く習慣がかつてはあり,1995年に新調した手帳が見つかりました.日記的なことは書いてなかったですが,クレジットカードの使用記録(たぶん大口の使用のみ記録したと思います)があって, “Embassy” と書いてありました.

1995年出張の手帳から

それで検索すると見つかりました.情報は多くありません.

キャンベラは首都なので大使館が集まっている地区があり,その中にあったので “Embassy Motel” という名にしたのだと推測されます.

現在は関係ない建物が建っているようです.

1997年

3月20日の写真を探していたら,1997年3月15日の写真が見つかりました.旅行中だったので写真は多数ありましたが,画質がひどいので,一番ましなのをこちらにも掲載します.

あの折りは,Fさん,Tさんありがとうございました.
一組だけです.彼らがいなかったらたぶん管理事務所まで小一時間かけて歩かないといけませんでした.
JAFと提携しているので,いろいろな資料をただでもらえました.
昔は小鳥のマークと記憶しています.
罫線だけの小さいノート.

WAJA

アマチュア無線のアウォードにWAJAというのがあります. “Worked All Japan prefectures Award” の略のようです. 一番肝心な要素と言うべき “prefectures” が略号から落ちてしまっていて大変残念な略し方と思います😓

また,世界的に人気が高いアウォードに,DXCCというのがあります.これにちなみ,交信した国や地域でなく,訪問した国や地域の数をカウントするDXFCというのがあります.いちおうエントリーしていますが,今後,そんなに訪問国を増やせそうもないので,どちらかというと実現可能性の高いWAJAの訪問版を考えてみました.

略称は,WorkedをWalkedにすればWAJAのままです😉

それで,今までどんな都道府県を訪問したか,思い出しながら表にしてみました.都道府県の並び順は,適当てきと〜です😓

DXFCは,transitもカウントして良いことになっていますが,国内版に関しては,以前同様の「遊び」をしていた無線クラブの先輩が「宿泊」を条件していたのでそれに従います.ただし,宿泊施設でなくて,親類や友人宅の宿泊もカウントすることにします.

都道府県名最初に宿泊した時期〃都市/地域〃訪問目的など通算訪問回数(通算滞在日数)
北海道1977年7月大雪山登山4回(14日?)
青森1994年青森市と弘前市出張1回(3日)
岩手1990年夏金田一温泉学会発表1回(3日)
秋田
宮城1980年代仙台(東北大学)学会発表2回(5日)
山形1980年代蔵王スキー3回(8日?)
福島1980年代福島(飯坂温泉)学会発表7回?(16日?)
茨城1981年日立市企業見学1回(2日) 1983年から在住
栃木1999年8月那須町家族旅行1回(2日)
群馬1970年榛名山林間学校2回(5日)
埼玉1973年秩父市キャンプ計数不可能.1964〜1979年在住
東京1996年2月港区オーストラリア長期出張のため一家でオーストラリア政府指定の医療機関で健康診断を受診したその前泊1回(2日) 1958〜1964,1981〜1983年在住
千葉1960年代柏市伯父の家(宿泊施設での宿泊は経験なし)計数不可能.1979〜1981年在住
神奈川1982年?箱根町大学の研究室旅行2回(5日)
新潟1980年代苗場/かぐら・みつまたスキー3回(10日?)
山梨1981年昇仙峡大学の研究室旅行1回(3日)
長野1981年夏軽井沢町テニス5回?(15日?)
静岡1970年代伊豆高原家族旅行2回(4日)
愛知1990年頃名古屋学会発表1回(3日?)
岐阜新幹線で通過は多数.
三重1979年8月三重郡朝日町企業研修1回(18日)
富山1974年?高岡市家族旅行1回(2日)
石川金沢市1回(2日)
福井富山・石川旅行の時に通過
滋賀1982年野洲町(当時)企業見学1回(2日)
大阪1980年大阪市企業見学5回(10日)
奈良1973年奈良市修学旅行2回(4日)
和歌山
京都1973年京都市修学旅行2回(7日)
兵庫通過は複数回.伊丹市訪問もあるが宿泊はない.
鳥取
島根山口から津和野に日帰りしたことはある
岡山訪問は複数回あるが宿泊はたぶんない
広島訪問は複数回あるが宿泊はたぶんない
山口1970年代大和町(現在の光市)法事で親類の家に宿泊6回(14日?)
香川
徳島
愛媛2006年7月新居浜市出張1回(5日)
高知
福岡1969年?福岡市従姉の結婚式2回(6日)
大分1994年大分市出張.空港と市街はホバークラフトで往復1回(3日)
佐賀
長崎
宮崎
熊本
鹿児島
沖縄

ご覧の通り,訪問時期は小学生の頃から,2010年までと長きにわたっています.岐阜県のように何度も通過したところ,兵庫県,岡山県,広島県のように訪問したことはあるのに,宿泊したことはないところ等もったいないところも結構あります.

また九州は,福岡と大分以外行ったことがありません.

さて,どう攻略していこうかな.

アマチュア無線的には「アワード」と書きます.
詳細は自分で調べてね😉