3月20日

1995年

1995年3月20日にオウムの地下鉄サリン事件がありました.多くの方が亡くなり,今なお後遺症で苦しんでいる方もいるせい惨な事件です.

前述のようにこの年度は「江戸詰」だったのでした.被害に遭われた方の多くと同じ霞ヶ関の一角に通っていましたが,あまりまともでない役人😅だったのでこの事件が起きた午前8時頃は,まだ家を出たかどうかのタイミングです.また,通勤経路も少し変わっていて,銀座線を使っていましたので,仮に何かの事情でこの時間帯に霞ヶ関近くに来ていたとしても直接被害に合うことはなかったと思います.

そして,そもそもまさにこの事件の起きた時刻にはアデレードにいたのでした.ですから,間接的な被害(交通や職場,周辺の混乱)にも合いませんでした.

当時,出先でインターネットが利用できるような時代ではなかったので,たぶんこの事件については,オーストラリアのテレビニュースで知ったと思います.

この日は観光をしている写真が残っていないので,業務だったと思います(といっても,業務関連の研究機関を訪れ,見学とディスカッションをするというゆるゆるの業務でした).

事件の犠牲になった方々のご冥福を祈り,被害合われた方々へお見舞いを申し上げたいと思います.

1996年

翌年の1996年3月20日は,やはり写真がありませんが,たぶん,シドニー郊外で借りる家が決まった頃だと思います.

1997年

さらに翌年の1997年3月20日は,たぶんシドニー郊外の自宅で過ごしていたと思います.3月いっぱい長男の通う小学校は夏休みで,前の週はブルーマウンテンズに2泊3日くらいで行ってきました.その頃,アナログ写真は撮らず,8mmビデオ撮影が多く,PowerMacに読み込ませていました.といっても当時のキャプチャーは480×360とかの低解像でした.また動画はディスク容量も食うので,短いビデオクリップやスティル写真を “写真” として残した程度です.スティル写真は写真としては鑑賞に堪えない画質でしたが,当時のWebに載せるには十分でしたし,現像・プリントが要らないのでなんといっても手軽で迅速,経済的でした.

Clarenceにて (1997/3/15)

ところが,この撮影の直後,蒸気機関車がトンネルを抜けた後,8mmビデオカメラが故障してしまい,3月20日を含む1か月間ほどビデオカメラが使えなくなりました.旅行から帰ってからしばらくはあきらめてアナログ写真を撮っていました.

虎ノ門駅を利用していました.
今思えば,業務だからこそ写真を撮っておくべきだったと思いますが,そんなに公的な訪問で,広報担当者でもない限り写真をパチパチ撮るような時代ではなかったようにも思います.
有志たちが管理運営している,歴史的な蒸気機関車.
蒸気機関車は,煙も出しますが,細かい石炭の粉をまき散らしながら走り,座席も石炭の粉だらけでした.たぶん石炭の粉塵が8mmビデオカメラのメカに入り込んだのだと思います.

3月17日

1996年のこの頃は,残暑の厳しい中,シドニー郊外で相変わらず家探しをしていたと思います.

その1年前の1995年3月17日は,ご褒美😓のオーストラリア出張中でしたが,キャンベラでの予定を終え,アデレードへの移動日でした.取れた便が夕方だったので,昼間は暑い中,テレビ塔やバーレーグリフィン湖に行ったりして過ごしていたようです.

山の上に建つテレビ塔.塔自体はそれほど高くないけれどサービスエリアはかなり広いと思われる.
バーレーグリフィン湖の湖畔にて.通りすがりのサイクリストが撮ってくれました.

で,昼下がりに空港に行き,レンタカーを返して,アデレード行きのジェット機に乗りました.B737でしょうか.今は亡きAnsett Australiaです.

アデレードに夕方着きましたが,荷物が出てきませんでした.この時点で公私合わせても国外旅行は4回目だったのですが,初めてのできごとでした.というか,今日まで海外旅行は都合20回,国際線搭乗は往復だから少なくとも40回ほど,国内外での国内線利用も数十回していますが,荷物が出てこなかったのはこのときだけです.

荷物を待つ客が自分以外誰もいなくなったので,少し焦ってLost Baggageの係のところに行ったところ,どこに泊まるか聞かれました.しかし,その時点でどこに泊まるか決まっていなかったのです.

このときの出張は1人だし,ある程度勝手を知っているオーストラリアだったので,宿の予約はせずに来たのでした.

係員にまずホテルを決めて下さいといわれ,ホテルの予約のコーナーに行きました.たぶん,ホテルの写真と料金の範囲が書かれたパネルが並んで,予約専用の無料の電話機が置いてあるようなところだったと思います.なんか,このときはご褒美と言うこともあるし,シドニーとキャンベラで節約できたので少し高めのホテルを取るつもりでいました.

予約コーナーに着く前にホテルの大きな看板がいくつかあり,そのひとつが気に入ったのでそこに決めました.場所もNorth Terraceなので,抜群のロケーションです.ホテル名が思い出せません.支払いはトラベラーズチェックだったようで,クレジットカード使用の控えも書いてありません😓

無事予約を取って,再び係員のところに行って,荷物のタグを見せてホテル名だけ告げたと記憶しています.

ホテルへはたぶんタクシーで行ったと思います.アデレード空港は,オーストラリアの大都市の中でも最も公共交通の便が悪いです(たぶん今日でも).いや,便がいいのはシドニーとブリスベーンだけ,というのが正しいかもしれません.

ホテルにチェックインして,腹も減ったのですが,食事に出かけている間に荷物が来たらめんどうだなと思って,しばらく待っていました.しかし,20時頃になってもこないので,そうだ,近くにマクドがあるということで,ホテルから5分くらいのマクドでテイクアウトして,たぶん20分かからずに部屋に戻ったら,なんとスーツケースが部屋の中にありました.いてもいなくても部屋に届けてくれるようです.高級ホテルに泊まったことがない,というかlost baggageなんか経験したことないので知りませんでした😓

こんなことだったらもっと早くに出かけてゆっくり食事をしてくるんだったと思いました.

ということで,3月17日は “Lost Baggage Anniversary” です.

アデレードのホテル (1995年)

思い出しました.InterContinentalです.裏付ける資料もありました.Google MapsやStreet Viewで確認しますと,現在も同じ場所にホテルがありますが,名前が “Oaks Adelaide” と変わっています.また,現在のInterContinental Adelaideは近くの別の場所にあり,見るからに高そうです😓

また,2006年の出張もこのあたりのホテルに泊まったのですが,何というホテルか思い出せません.資料を探してみます.

2002年に経営破綻.
徒歩圏内に,博物館,美術館や公園がある.
オーストラリアでは, “Take Away”.
当然経営も変わっているでしょう.

3月15日

1996年

そんなわけで,1996年の3月の今ごろは,シドニー郊外で家を探す日々でした.泊まっていたのは,Lane Coveというシドニーの北の住宅街にあるホテルでした.今,Street Viewで見ると,存在していません😓 名前も思い出せませんが,有名な中くらいのランクのホテルのチェーンです(見つけました).

最初はちゃんとした部屋に泊まっていましたが,家がなかなか見つからない中,少しでもホテル代を節約しようと,途中で安い部屋に変えてもらいました.安い部屋は,入り口は1階ですが,奥は地下の半地下構造で,少し湿っぽかったです.

そのホテルはBYOレストランが着いていて,たいていはショッピングセンターのフードコートなどで食事をしていましたが,家が決まったかなんかで,1人で祝うためにそのレストランで食事をした際,ビールを飲もうと思い係員に聞いたら,ここはBYOだから,自分の部屋の冷蔵庫から備え付けのを持ってきてくれと言われ,なるほどそういうものかと感心したのを覚えています.

しかし,それらが3月の何日に起きたことかは写真もメモもないので全く解りません.当時はまだアナログ写真の時代で,写真が趣味だったわけでもないので,本当に振り返るのに写真がなくて困ります.

1995年

3月15日というのは,その1年前の1995年のオーストラリア出張でキャンベラにいた日でもあります.

1994年度は,同業者の間では「江戸詰」といわれるのですが,本業とは違う「役人」としての仕事をしに,東京に通っていました.その年度末に年季明けのご褒美として好きなところに出張できたのです.

それまでオーストラリアとアメリカに公私でいったことがありますが,どちらかというとオーストラリアに行きたかったです.とはいえ,仕事に関係した見学やディスカッションができそうなところを全く知りませんでした.さいわい個人的なコネで😓適当なところをアレンジしてもらいました

振り出しはシドニーでしたが,3月14日にキャンベラに移動しました.キャンベラでは,「レンタカーを借りて途中で見つけたホテルにふりで泊まる」というのをやってみたくて実践したのでした.その時のレンタカーの写真はありますが,ホテルの写真は残っていません.

そのホテルは実はユニークな形状をしていて有名だったらしいです.たしか,木造で,ドーナツ状をしていました.ずいぶん後になってそのホテルが取り壊されるというニュースをたぶんオーストラリアのメディアでたまたま見たのだと思います.今検索を試みましたが,全くひっかかりません😓 写真が1枚もないというのはなんとも残念なことです.

あとで何とか手がかりを探して,追記したいです(見つけました).

その翌日3月15日は水曜日のようですが,予定がなく,学生時代に訪問を果たせなかったTidbinbilla Nature Reserveに行ってきました.1983年の同じ3月に卒業旅行で訪れたのですが,山火事でNature Reserveが閉鎖されて,ツアーバスが入れなかったのです.

ホテルのあるキャンベラ都心から小一時間かかったと思います.Nature Reserveの入り口から一番奥にあるコアラを囲っている地域に入りました.Nature Reserve内にもコアラはいるはずですが,広い公園内の高い木に散らばっているので素人はまず見つけられません.そのため,一区画を柵で囲ってコアラをまとめて住まわせ密度を上げているようです.ですから,公園内で探すよりは見つかりますが,やはり高い木の上の方にいるので簡単には見つけられません.

そこに車を駐めた時でした,鍵をかばんごと閉じ込めてしまいました😓 鍵の閉じ込めって一生で何度もやったことはないのですが,よりによって人里離れた自然公園の一番奥まった地点でしたのでした😓

ということで,3月15日はキー閉じ込め記念日です.

たまたま,コアラを見ていた他のグループが一組いたので,その人たちに頼んで公園の入り口にある管理事務所に乗せていってもらいました.

管理事務所でレンジャーに頼んでレンタカー会社に電話をしてもらいました.

事務所近くのカンガルーやエミューを見て待っていたら,たぶん小一時間でレンタカー会社の職員が来てくれて助かりました.

たまたま写真がありましたが,せっかくだからということで樹上のコアラを見てから帰ったようです.

追記

Country Comfort Motel (Lane Cove)

見つけました.1998年か2000年にシドニーを旅行した時に,NRMAという日本のJAFに相当する会社でもらった, “Holiday Guide: Sydney Central and Greater Western Sydney” で,Lane Coveを探したらありました.

こちらは,なくなったと思ったのは場所を勘違いしていて,今も存在していることが解りました.ただし,昔とマークが変わり,名称も現在は “Comfort Inn North Shore” になっているようです.

また,半地下の部屋は,説明書きと写真の雰囲気から,ROOMSの一番下にある,Ground Floor Queen Roomと思われます.

Embassy Motel (Canberra)

Canberraのホテルも見つけました.旅行に行く時は手帳を買って持って行く習慣がかつてはあり,1995年に新調した手帳が見つかりました.日記的なことは書いてなかったですが,クレジットカードの使用記録(たぶん大口の使用のみ記録したと思います)があって, “Embassy” と書いてありました.

1995年出張の手帳から

それで検索すると見つかりました.情報は多くありません.

キャンベラは首都なので大使館が集まっている地区があり,その中にあったので “Embassy Motel” という名にしたのだと推測されます.

現在は関係ない建物が建っているようです.

1997年

3月20日の写真を探していたら,1997年3月15日の写真が見つかりました.旅行中だったので写真は多数ありましたが,画質がひどいので,一番ましなのをこちらにも掲載します.

あの折りは,Fさん,Tさんありがとうございました.
一組だけです.彼らがいなかったらたぶん管理事務所まで小一時間かけて歩かないといけませんでした.
JAFと提携しているので,いろいろな資料をただでもらえました.
昔は小鳥のマークと記憶しています.
罫線だけの小さいノート.

3月11日

そういう訳で,個人的にはこの頃の思い出と言えば,1996年にシドニーに渡って,4月初めに渡豪する家族を迎え入れるための準備を開始したことですが,やはり2011年の3.11も忘れられません.

東日本大震災の当日はこの季節としてはずいぶん暖かい,を通り越して暑かった印象があります.確か金曜日と記憶していますが,休暇を取り,ヨーロッパに音楽修行にいく家族のため,まとまった金額のトラベラーズチェックを買いに,昼前に銀行に行ったのです.

その家族は,既に高校の卒業式を済ませましたが,3月31日までは正式な身分は「高校生」です.18歳に達していても高校生だと,クレジットカードの家族カードが作れません.ということで,渡欧して初動の資金は全て持参するしかありません.さすがに現金では危険ですしレートも悪いので,トラベラーズチェックを買って持たせました.たぶん,これがトラベラーズチェックの最後の購入になったと思います.

午前中に任務を終え,暖かいというか暑さを感じる書斎で,くつろいでいたところ,東日本大震災に見舞われました.

家の中も棚の上に置いてあるものはことごとく落ち,皿が食器棚から飛び出して多数割れ,エアコンの室外機が倒れたりしましたが,食器棚自体やタンス類,テレビなどの大型家具,家電はほとんど耐震対策をしてあって転倒することはなく,大きな被害はありませんでした.家族も無事でした.

実はこのとき,職場ではスチール製の大型の棚がほとんど倒れてたいへんなことになっていましたが,地震の当日はそういう訳で休暇を取っていましたし,週明けからしばらく出勤停止になったので,その惨状を自分の目で確認したのは何日も後のことでした.

たぶん,職場にいたら無傷では済まなかったかもしれません.幸運だったと思います.

気象庁のデータでは,2011年3月11日の当地の最高気温は11.5℃で,記憶にあるほど気温は上がらなかったようです.
正しいです.
複数の同僚が重軽傷を負いました.

3月10日

1996年

今となっては「3.11の前日」と連想しそうですが,東京大空襲は,忘れてはいけません.

また,私にとっては1996年,1年3か月のシドニー長期出張に出発した日です.

自身にとって,当時海外に出発するのは6回目でしたから旅自体はどうと言うことはなく,すいたB747で運良くビジネスクラスに格上げしてもらったゆったりしたシートの夜行便で翌日の早朝にシドニーに着きました.

この出張はとある海外研究協力ファンドによるもので,長期出張の1か月前前後に1週間下準備のため出張できることになっていて,2月上旬に行っていました.

このときが海外渡航時にトラベラーズチェックを持たなかった最初だったと思います.長期出張に備えて,海外のATMで引き出せる口座を事前に開設しました.

その一週間で,どの町のどんな家に住むのか下調べをして,順調にいけば家の契約をしてくる,というのがミッションでしたが,下調べで終わりました.しかし,住む町の様子はよく解りました.

たぶん,2月の出張は自家用車で成田空港近くの民間駐車場に駐めたと思いますが,3月の出発時にどうやって成田に行ったか,いまとなっては定かではありません.1年以上駐車場に置くわけにいきませんから自家用車じゃないことは確かです.1月初めに長女が産まれたばかりなので,妻に送ってもらったというのも違うと思います.

土浦→つくば→牛久→成田空港の,(当時)高速道路を走らない高速バスを利用した可能性が高いと思います.あるいは,夜行便なので空港までは日中にゆっくり行けばいいので,JR在来線を利用したかもしれません.スカイアクセス線が開通したのは,これよりずっと後の2010年なので,鉄道を利用したとしたらルートは荒川沖→我孫子→成田→成田空港です

よその会社・組織の人には「1年ちょっとは長期とは言わない」って言われましたが,私の所属した組織では,3〜9か月が中期で,それ以上は長期出張と区分されていました.
そのうちの5回はオーストラリア.
当時はまだアナログ写真で,写真マニアでもなかったので,それほど頻繁に撮影することもなく,この往路の写真は1枚も残っていません.
京成とJRが空港ターミナルに乗り入れを開始したのは,1991年とのことです.